工房裏 あまり触れることの無い職人の素顔を紹介しよう。~中新田打刃物 その1~

中新田打刃物 最後の職人 石川さんと出会ってから9カ月になります。それ以来、週に2~3回の割合で会っています。私の職場から比較的近いこともあり、何かあるたびに顔を出しています。何かというのは製造方法であったり、刃モノの歴史であったり、とにもかくにも人さまの手作り品を扱う以上は、その魅力、特長を伝えなければいけないという使命感がありました。

なにせ宮城県伝統的工芸品といっても組合が消滅して何年も経過しており、資料らしい資料はすでにありません。昭和時代に作られた古臭いパンフレットを一枚残すのみで、販促資料が一切ないのです。包丁製造における工程に関しては、日本全国そう大きな差はありませんが、伝統技ということもあって、細部にわたってはそれぞれに地域によって「こだわり」が違ってきます。

それを伝えるためには、石川さんに直に聞くしかありません。しかしながら、石川さんは携帯電話も持っておらず、工場に電話もファックスもありません。工場に足を運ぶしかないのです。何度も何度も足を運ぶ中で職人 石川という人間が見えてきましたが、一言でいってしまえば、「愚直」である。これに尽きます。

頑固でも無ければ、へそ曲がりでもない。ただただ「愚直」。そう表現するのが私はもっとも彼にフィットすると思います。今日は、ゴールデンウィークも後半にさしかかった5月5日ですが、今日も彼は愚直にハンマーを持ち、叩いています。

私が石川さんと出会ってから、年末年始、祝祭日の連休、ゴールデンウィークと国民の休みが何度かありましたが、私は彼が日曜日以外に休んでいるのを見たことがありません。時には日曜日でさえ働いていることもあります。

クチでは「もうやんだ(嫌だ)」「やすみでぇ(休みたい)」と言いますが、心が折れたとこはたぶんほとんど無いでしょう。

なぜ、ここまで愚直なのか? それはおそらく石川さんの若い修行時代に起因していると思います。

石川刃物製作所の創業はおそらく1900年頃だと思われます。正確な資料は残っていませんが、当代の石川さんの曽祖父さんが初代ですので、逆算するとその頃になります。石川さんはその4代目で、高校を卒業してから兵庫の刃物メーカーに住みこみで働き、2年後には家業を継ぐべく実家に戻っています。それから約38年の歳月が流れましたが、高校卒業以来ずーっと刃物一筋です。

石川さんは他の職業を知りません。兵庫の刃物メーカーでは「鎌」の製造だけだったので、包丁の作り方も「中新田打刃物」しか知りません。なので、包丁の一大名産地である「関」や「堺」あるいは「越前」の話を石川さんにしてもまったくわかりません。

もっと言うと白紙2号と青紙2号(※どちらも鋼の種類)を使った片刃の包丁以外のことは、ほとんど知らないと言っても過言ではありません。

ここまで他の同業他社あるいは他の職人に一切目を向けず愚直に中新田打刃物を作ってきたのにも当然訳があります。それは、先代の親父さんが急に「俺は辞める。あとは美智雄。おまえがやれ」と急に当代になったからです。

「技術は教えるもんじゃない。盗むものだ」そういうセリフの似合う典型的な時代でしたから、この時点で石川さんはまともな包丁はまだまだ作ることができませんでした。

石川さんは言います。「親父が引退したとき、7割くらいはできたが、残りの3割が重要だった。自分でどうすれば上手くいくのか試行錯誤して満足のいくようになったのは親父が引退してから3年後くらいだった」

刃物製造で一番大事なのは鍛造です。いわゆる鋼と鉄を接合させる工程で、この出来が悪いとあとの工程をいくら上手にやったとしても良い包丁はできません。当初は、この失敗と成功の確率が「成功2割:失敗8割」だったそうです。

また、その熱した媒体をいかに上手に冷めさせるかも重要で、白紙2号では通常冷却しても鋼が割れないのに対し、青紙2号では割れてしまうなどの問題を1つ1つ解決していくのに試行錯誤を繰り返したと言います。

こうしてどうしたら中新田打刃物として恥ずかしくない「切れる」包丁を世に送り出せるかを追求していくうちにあっという間に38年が経ってしまったとのことでした。

そんな石川さんにも唯一楽しみにしていることがあります。それは・・・

2へ続く

発酵食品を愛する二町歩半のコメ農家。好きなことは、自転車で大崎市から山形や岩手に行き、グーグルマップで見つけた評判の良い店でランチを食べ、家に帰ってきたら汗をかいた分だけ加美町の酒蔵の純米酒を飲むこと。中新田打刃物の海外輸出をキッカケに英語の学習を初め、語学上達のため年に数度フィリピンに旅行している。